この世界の片隅の穏やかな暮らし

アーユルヴェーダに則った生き方をしています。

Love yourselfで地球とハッピーに生きよう

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自分が自分っぽい瞬間って味わえていますか?

I'm love in. Time fry. みたいな感覚。

私の自分っぽい瞬間は言語を使っている時。

朝のインドネシア語の勉強、仕事中にプログラミング言語のソースを解読している時。英語で親友とディスカッション練習。日本語でこのブログを書いている時。

母語である日本語を除いて全くのプロフェッショナルではないけど、自分はそれを使っている時が一番楽しい。なぞなぞみたい。

しかもやればやるほど深みにはまる。まるで依存症みたいだ笑

そんな自分っぽい瞬間を重ねるほど、自分ってもんが形成されていく。

 

そして今はそんな積み重ねで出来上がった自分が好きだ。

 

自己愛っていうとなんか恥ずかしい?くすぐったい感覚するんだけど、自分のこと愛せなくて、家族や友人、生き物、自然を愛すのって難しいと感じる。

 

ちょうど一年前くらいに産業型の畜産がもたらす環境への多大な負荷に関する事実を知って、乳製品を含む動物性の食品を全く摂らなくなった時期があった。

生まれてきてから20数年続けてきた食生活をガラリと一変させることになって、体はその変化に追いつけなった。今まで自分の体を保ってきたバランスが崩れた感覚がしたのに、「環境を守りたい」という一心だったから、自分がボロボロになってもいいや、自分をないがしろにしてしまった。それでストレスを抱えることになって、月経不順で頻発月経と診断され、2週間に1回のペースで血が体外へ。

 

「環境問題を知り、考え、行動する。」という選択は時として心身に支障をきたす事があることを物語る経験だった。

 

今まで知らずに生きてきたけど実は環境にめちゃくちゃ負荷がかかっていたのかという、パンドラの箱を開けちゃった気分になって、気分が落ちる。ショック。

そうして考えると、自分が痩せ我慢すればいいアクションに向かってしまう。

 

でもそこには矛盾が生じる。本来ならば自然を守れてハッピーな気持ちなのに、やせ我慢をした自分は苦しくなるだけ。自分にとっては悪循環。

 

自分も人間という生き物。

意思のある生き物。

川に転がってる石ころみたいに、何も感じないのであれば、自己愛は必要ないと思う。

でも少なからず人間は日々の瞬間に何かを感じてしまう生き物なのだ。

何かを感じることがわかった上で、マイナスを感じるよりもプラスを感じれる方が生きていて心地が良いと思うのは自分だけなのだろうか。

 

まずは自分という土台を、自分らしさを感じられる瞬間の積み重ねで作って、自己愛を形成し、問題に対して打ちのめされない自分になる。

 

そしたら、楽しみにながら環境へのアクションに繋げられる。そのアクションが積み重なれば、自分もまた自然と共に生きる道を形成してる事実でもって満たされるわけ。まさに好循環。

 

自己愛が、環境問題を知り、考え、行動する事には必要であると、肉食を絶った経験から学んだ。