この世界の片隅の穏やかな暮らし

アーユルヴェーダに則った生き方をしています。

宗教と太陽礼拝

 

2年位前まではイスラム教に改宗しようか考えていた。当時付き合っていた人がイスラム教徒だったからだ。でもならなかった。なれなかった。が正確な答えだ。

 

「神を信じる」

昔から無神論者を貫いてきた私にとって、イスラム教で神を意味するアッラーの存在を信じ、お祈りや食事、精神論に至るあらゆる事においてアッラーの行いを遂行する点に一番理解に苦しんだ。いるかいないかよく分からない存在を、自分もイスラーム教徒の人たちと同じようには信じられなかった。

 

でも一年間インドネシアにいた時、毎日近所のモスクから流れる礼拝への呼びかけであるアザーンに耳を傾け、そして水で顔や手足を清めてから、お祈り用のマットを敷き、メッカに向かって土下座のような体勢をしたり立ち上がったりの繰り返しを目にしていて、その光景にどこか憧れがあったのは確かだった。「Mbak, aku mau sulat dulu ya.」(=「お祈りいってくるね~」)と言われると、彼らが子供のころからの当り前にしている習慣であることを実感すると同時に日本にはない異国情緒あふれる瞬間だったからかもしれない。

 

朝のモーニングルーティンをしていると思うことがある。それは、このモーニングルーティンがあのインドネシアで見ていた様子に近いことを自分もしているという感覚になるのだ。

朝起きて、体を清めてからヨガに入る。ヨガ中の太陽礼拝は、”お祈り”に非常に似ている。胸の前で合唱、手を挙げて天を仰ぐようにして伸びる、体を半分に折り.......という一連の動作をしていると清々しい。

 

<補足:太陽礼拝とは>

太陽礼拝は、1900年代に現代ヨガの父であるT.クリシュナマーチャーリャが身体鍛錬術の構築の中で取り入れたことで普及した。別名スーリャ・ナマスカーラというらしい。通常12ポーズから成る、アーサナ(=安定していて快適な姿勢)と呼吸を組み合わせた運動を指すという。

 

「宗教を持たずしても自分が信じたいと思うものを見つけた」

神を信じるという選択をしなかったけれど、5000年の歴史をもつアーユルヴェーダ哲学に則るという選択をした。(前回書いたけど気づいたらそうなっていたというのが正しい気がする...)アーユルヴェーダ哲学とは、体を浄化し滋養を与え、オージャス(=生命力)を増やして老化を遅らせる知恵の蓄積を指し、ヨガとは兄弟関係にあると言われている。内なる知識となるヨガと外の知識であるアーユルヴェーダ哲学を組み合わせる事で”本来の自分”に出会うことに繋がる。

”本来の自分”とは何なのか本当にわかるようになるのかはさておき、モーニングルーティンをこなしながらアーユルヴェーダを自分の中に少しずつ取り入れていこう。

 

Yuuu