10分の空白
今日でこのブログへの投稿を最後にします。
2018年にインドネシアへの留学の記録を目的に開設したブログですが、
ここ一年は自分のライフスタイルを投稿していました。
綴ることは、自分のクリエイティブなサイドを存分に出す至極の時間
ここは縛られたり囚われたりすることなく自分という世界を作り出せたー。
仕事では相手の期待や思いに応えることが求められるから、私はそんな”縛り”からの解放タイムがほしいかったー。
だからここ最近の気ままに週一投稿では、原稿を書き、写真を載せ、Publishのボタンを押した時のなんとも言えない爽快感があった。
でもなぜ投稿をやめるのか?
このブログにケジメをつけたいのです。
インドネシア留学→インドネシア複数回の渡航→コロナ→就活→大学卒業→社会人1年目
と、この3年間は言うならば激動の3年w
このブログにはそんな私の激動期が詰まった一つの世界なのです。
激動期に終焉を
この数ヶ月は可能な限り一日10分間の空白(瞑想)の時間を作ってきました。
目まぐるしく変化する時代。
情報に追われる時代。
頭の中の情報処理が追いつかない。
ぐちゃぐちゃする頭の中。
混乱。
秒で過ぎる一日。
結構生きるのってタイヘン。シンドイ。
それでも思ってきたこと。
それは、
変化に受身ではなく能動的に。
情報は自分で追いたい。
頭を整理してクリアにシンプルでありたい。
一日10分間、目を閉じる。
自分の呼吸を観察する。
今の自分の頭の中で一体何を考えているのか、見つめる。
今日は、締切に追われる仕事のこと。
今日は、うまくいかない友人関係をどうすればいいか、と考えてると同時に
夜ご飯何食べようか考えている。
そんな考えを見つめて、心を鎮める。
私の瞑想イメージは砂時計。
黒い砂が常に流れている感じ。
そんな砂時計が見えてくると、何も考えずにただ呼吸に集中している。
ブログのタイトルにある「この世界の片隅の穏やかな暮らし」のように、
この世界の片隅にただ”いる”だけ。
スマホにかけたアラーム音で空白の時間の終わりを告げる。
頭がリセットされた感覚に今日もこの10分が作れてよかったと感じる。
この10分間の空白の繰り返しで激動期の自分と現在の自分は一味変わったなと。
リニューアルした自分を表現する世界を別に作っていきたいと考えてます!
(あとURLもダサくて嫌だった笑)
と言うわけ「この世界の片隅の穏やかな暮らし」は閉めます。
これまで少しでも読んでくれた皆様ありがとうございました。
土曜の朝は水遊び〜生活を整える洗剤はなにを使いたい?
土曜の朝は、平日5日間の勤務をしたという安堵感と平日と違う日が始まるのかという実感に溢れている。
そんな朝は決まって水遊びタイムこと、水回りの掃除をするのが日課だ。
一週間分、毎日使用しているトイレ・お風呂場・キッチンシンクを労う。
日々使用して蓄積した汚れをきれいに洗い流すことは、自分の一週間の疲れを流している感覚になる。
そしてその汚れを落とす洗剤には環境に負荷をかけない洗剤を愛用している。
どんな洗剤がコスパと環境に良い?
自分が使ったことで生まれた汚れを落とすために、環境を汚しているのはきれいになった感覚にならない。むしろ本末転倒でさらに汚れを生み出している気分になるから、掃除する商品、少しでもこだわりたい。
石油由来の合成活性剤が含まれている従来の洗剤は水質汚染の原因となるとされているので使用を避けている。その代わりにドイツで生まれたSONNET(ソネット)というメーカーの洗剤を使用。
トイレの洗剤
お風呂の洗剤
キッチンシンクの洗剤
使わなくなったハンカチを切って、シンクをふきふきすると汚れが案外落ちる。
(おまけ)洗濯洗剤
もちろんソネットの公式ホームページからオンライン購入することも可能だけど、フランスで生まれたビオセボンというオーガニックスーパーマーケットでこれらソネットの商品の取り扱いをしていて値段も変わらないので、店頭でも買える。
価格とのお話し合い
正直、こういう商品はまだまだ価格帯は値段をはる。
洗濯洗剤に関しては以前エコストアの商品を使用していたのだけど、コスパ悪くてやめた。
先に紹介したソネットの洗濯洗剤一つで柔軟剤なしでふわふわの仕上がりになるのでこちらの商品を使用するようになった。
<以前>
【ecostore】ランドリーリキッド<無香料>1L 1298円
【ecostore】ファブリックソフナー<無香料>1L 1408円
Total : 2706円
<現在>
【sonnet】ナチュラルウォッシュリキッド750ml 1320円
Total : 1320円
しかも、現在使用している「【sonnet】ナチュラルウォッシュリキッド750ml 1320円」は、詰め替え用5Lで5940円なり。1Lあたり1188円でお得。
自分のお財布と相談して、できるところから生活を改良していかないと難しいのが現状だけど、少しずつ気ままに〜。
こんな商品たちを使って汚れを落とした後は、友人や家族と食事に行ったり、カフェで趣味に没頭している。
まとめ
土曜日の朝は水遊び、自分の生活を労い身の回りを整える。
そこに環境にやさしい商品を使うことで気持ちはより清々しくなる。
まずはたった一つの洗剤を見直してみるところから始めてみてはいかがだろうか。
家から始める土壌の再生
毎日が楽しいわけじゃなくて波があるのが生活というものだとヒシヒシと感じるこの頃。これまでは逃げがちな自分もいたけど、少しずつ試練たちに向き合えるような免疫がついてきたかなぁ。
そんなワタシはたまにJason Marzの”I Won't Give Up”に励まされたりしてます。
I won’t give up on us
Even if the skies get rough
I'm giving you all my love
I'm still looking up
この曲を知ったのはNetflixのドキュメンタリー映画『KISS THE GROUND』(概要はこちら)。土壌と気候は密接に関わり合っていて、土壌を汚染することで気候変動を招く。裏を返せば、この土壌を再生(リジェネラティブ)することで、人間活動による地球の汚染を軽減させることに繫るということを説いています。
どんな人間活動が地球を汚してしまっているのか?
『KISS THE GROUND』では従来型の農業による過度な土壌耕作に警告をしている。
この耕作では、土壌の中にある二酸化炭素を大気中に一気に放出させてしまう。私たちが普段口にしている野菜や穀物は基本的には従来の大量生産向けの農業でできたものが大半を占めており、土壌汚染から大気汚染を生み出してしまっているよう。
また化学肥料によって本来ならばよく肥えた土を作る役割を果たす微生物も死滅してしまっている。
耕せば耕すほど、質の悪い土壌に仕上がっているというわけ。
土壌汚染を解決するキーは"再生"
再生農業にシフトすることで、質の高い土壌と微生物の回復をおこない大気中の二酸化炭素を土壌内に戻すということを解決策として導いている。
ドキュメンタリー内で「DRAWDOWNドローダウン― 地球温暖化を逆転させる100の方法」の著者ポール・ホーケン氏によると、土壌内で何世紀も炭素隔離をすることが気候変動の進行を止められるとしている。
そもそも気候変動ってなんで起きているんだっけ?
気候変動は、電力の生産や車や飛行機などの移動手段などから大気中の温室効果ガスの放出にされます。それは、地球に異常気象や土地の侵食・生態系のアンバランスといった異常現象を引き起こし、人間の生命維持は愚か地球そのものの存続を危ぶませてしまう。
要は大気中に炭素が多すぎる問題。それを減らさないと地球の温度がどんどん高くなって、私たちの現在当たり前な生活も送れなくなってしまうよ!って警鐘してるのです。
農業なんて直接的に関係ない人でも土壌は作れる
そんな土壌再生の為になにしてみる〜?というので、今回私が実践していることご紹介。
その一|コンポスト
・野菜や果物、残飯とかはコンポストセットを購入→コンポストの中に放り投げればOK
有機物のごみたちはコンポストの中にいる微生物ちゃんたちに分解されて土に戻る。
生ゴミは燃やされて二酸化炭素にならずに土に戻ることを直に体験している。
コンポストセットはこれ。
その二|備前焼のリサイクルマグ
・コーヒーカップを陶器ごみから生まれた焼物で飲む
RI-CO BIZEN のリサイクルマグカップを愛用。
岡山県の伝統、備前焼で作られたこのマグカップはコーヒーの味を変えちゃう不思議なカップ。リモートワークの午後一はいつもこのマグカップにコーヒー淹れて働いてます。
焼物は土からできていて、このマグはごみとして廃棄されてしまう焼物をまた材料へと再生させて作られています。長く使っていても、もし仮に壊れてしまったらまた材料に再生されていくっていう循環が見えてハッピー。
リサイクルマグのクラファンの一部始終になります。詳細はこちら。
終わり!また来週火曜21:00にお楽しみに〜
「生きていたんだよな」
この前、音楽を聴きながら料理をしている時にあいみょんの「生きていたんだよな」がふと耳に止まった。
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二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた
血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食
「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな
馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった
冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で 綺麗で
泣いてしまったんだ
泣いてしまったんだ
何にも知らないブラウン管の外側で
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう
彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう
立ち入り禁止の黄色いテープ
「ドラマでしかみたことなーい」
そんな言葉が飛び交う中で
いま彼女はいったい何を思っているんだろう
遠くで 遠くで
泣きたくなったんだ
泣きたくなったんだ
長いはずの一日がもう暮れる
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな
「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲をつかんで
風になって 遥遠くへ
希望を抱いて飛んだ
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう
サヨナラ サヨナラ
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「冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で 綺麗で」
「生きていたんだよな」
「彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう」
自殺した女子高校生を題材にしたこの曲。
「赤さが綺麗で」ありながらその「生きた証の赤い血は何もらない大人たちに二秒で拭き取られてしまう」。ここに生への儚さと美しさを感じてしまう。
死ぬときは一瞬で、人生を重ねた年月があって確かに生きていたんだと、最期にその彼女の体を循環し続けていた血が生を表現する。
生は儚くて美しい。
永続するものなどこの世に存在せず、生き物は生まれてから死に向かって毎日呼吸をして生きている。
その重ねた年月にも、儚く散る日が必ず来る。
でも、私たちはその散る日を静かに待つというよりも毎日をがむしゃらに生きているのではないか。
「「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。」
精一杯は何をもって言うのか?
別にかっこいいとか悪いとか関係無くて、悩んでてもいいし、苦しんでいてもいい、
人と歓び、悲しみ、泣いて、笑っている。
来る日も来る日も、朝太陽が明けて、夕方には太陽が沈み、また外は暗く覆われる。
その繰り返しの中で、自分は何を考え、感じ、どんな行動をするか。
それが自分という”個”を形成している。
個はいつも孤独なのか?
個の形成と孤立は違う。
NHK「100分de名著」ブックス 福沢諭吉 学問のすゝめ NHK「100分de名著」ブックス
を読んでいてはっとしたことがあった。
「自分はチームの一員であり、チームの一翼を担っているのだという気概こそが、独立心です。周囲との関わりを持たず、一人ぽつねんと存在することは独立ではありません。それは孤立と言います。」
思い返せば、自分の個に意識が向きすぎて勝手に孤立を感じている時もあったなと。
Twitterでかまたくが言ってた。
「人は死ぬまで孤独、一人だと。」
自分はこの世にたった一人の存在Aであり、代役Bは存在しない。
だから、個はいつも孤独である。
でも孤立しているわけではない。
孤立は社会からの拒絶、他人との関係を遮断。
孤独は心が通じ合う人がいない。代役Bがいなくて自分と全く同じ人等いないからそう。
孤独でも、人間は「虚構」を作り出してこの社会を形成してきた。(サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福)
想像し物語を作る能力は他の動物たちにはない。
だから孤独でもお互いを理解する力が人にはあるが、それは孤立に繋がるし、対して連帯にも繋がる。
自分の人生ストリー、今この瞬間をどう語るかは自分次第だ。
私は、今日というこの日を華麗に美しく生きていきたい。
NHK「100分de名著」ブックス 福沢諭吉 学問のすゝめ NHK「100分de名著」ブックス の言葉を借りるのならば、「識別と行動力」をもっていたい。
その日の自分にご褒美タイムを作る
自分へのご褒美はなに?
最近、仕事が楽しい。
現在のシステムエンジニアとしての業務内容は、主にコーディングと単体テスト、統合テスト。コーディングは開発案件に沿った既存のパッケージの修正、単体テストは、そのコーディング修正後に既存のシステムが正常に動くかのテストをしている。統合テストは全体の処理を流して機能するかのチェック。
仕事が楽しいと感じるようになったのはなぜ?
「ピークエンドの法則」を自然と取り入れていたから。
この法則は、2002年にノーベル経済学賞を受賞した心理学者・行動経済学者のダニエル・カーネマンにより提唱。
ピークエンドの法則なに?
まず大腸内視鏡検査を受けた患者Aと患者Bの実験結果をみてほしい。
(1990年代に行われたこの実験当時は、大腸内視鏡検査は相当な痛みを感じる検査だったみたい。)
<実験結果>
患者A
|
患者B
|
|
---|---|---|
時間 |
10mins
|
25mins
|
患者自身の痛み |
嫌な記憶
|
まあまあ嫌な記憶
|
時間を見ると明らかに患者Bの方が長く、どちらが嫌な記憶として残るかと聞かれたら患者Bと私たちは予想してしまう。でも実際に痛みを感じた患者のうち患者Aが嫌な記憶として残ったという結果だった。
時間の他にあった違いはなにか?
これはどう終わるかによる。患者Bは患者Aよりクライマックスに強い痛みを感じていない一方、患者Aは最後に強い痛みを感じている。この最後のシメがどうなるかで自己の記憶の残り方は変わる。
次の話に進める前に、私たちには二つの自己があることを念頭においてみよう。
カーネマン曰く、私たち人間は記憶の自己と経験の自己を持っている。
例えば、腹痛で病院の問診を受けたとしよう。
「今日はどこが痛いですか?」
「お腹です。」
これは経験の自己からの回答。今現在の腹痛という経験をしている自己(約3秒らしい)である。
「いつ頃から痛いですか?」
「昨日からです。」
これは記憶の自己からの回答。いつからお腹が痛いのか思い出している自己。
記憶の自己→過去や未来に考えをめぐらしている自分
この二つの自己についてと大腸内視鏡検査の実験はカーネマン本人のトークを参照してます↓
当然、嫌な記憶として残った場合はその行為を再びする時に記憶の自己が思い出しちゃう。「あ~痛いのやだな」って。となるとその経験はもうやりたくないと思っちゃうの。気分だだ下がりで落ち込んじゃいます。
それは仕事に対するスタンスにも汎用できて、仕事終業時にすごい嫌な気持ちで終わったら、次の日の始業時に思い出します。始業時じゃなくても仕事の事を思い出せば、「いやだな~」って。それが毎日続けば仕事なんかしたくなくて辞めたくなってしまう...
ピークエンドの法則に|20分間のエクササイズ
結論仕事でピークエンドの法則を自然と取り入れた術としては、終業直後に20分間のエクササイズでした。
冒頭でも述べた通りピークエンドの法則を取り入れていたのは偶然でした。私個人としては、リモートワークで出社もせずにずーっと椅子に座っている生活は、生物学的に人間として終わっているなと。人間の進化の中で、脳が発達した分身体的能力が退化したという事実もあるけど、「体を動かしたいな。不健康やだな。」というのがきっかけでした。
一日の自分を褒めたたえる時間になるし、一日座りっぱなしでほり固まった体をほぐすことにもなっています。このエクササイズタイムが日々の仕事に前向きに取り組むティップスになっている事、間違いなし。
ちなみにそのエクササイズは、竹脇まりなさんのYoutubeを毎日終業時にしてます笑
もちろんこれだけが仕事を楽しいと思う要素ではなくて、ほんの一要素を書いてみました。研究者の意見に耳を傾てみると、今回のように自分の習慣が実は理にかなっている事に気づけたりします。
そして私のスタンスとしては、あるフィールドに己の時間や意志を投じている人(特に学者)の意見にはある程度信頼性を持っています。明らかにそこらへんに転がっている適当な情報よりも正当なエビデンスがあり、説得力があるから。
でも、実は人間がどのように誕生したのかを生物学的に辿ってみると、人間活動そのものに対する見方が大きく変わったりしてきてます。この話はまたどこかで。
♦お知らせ
毎週火曜21:00に投稿するようになりました。
ではまた来週~
時間的な余裕を感じるのはどんな時?
※今回は自分の思想で書いた。
いつもは参照する材料があるけど、なんか上手に見つけられなかった。
「時間はゴムのように伸びる」という概念がインドネシアにはあって、Jam Kalet(ジャム・カレット)と言います。南国のならではのゆーたりした時間感覚は、時間厳守である日本文化には馴染が薄いかも。
でも日本にいながらも最近、このジャム・カレットな時間感覚の中で過ごしています。
「一秒、一分、一時間の感覚が伸びているな」と感じるんです。
その理由は、無駄に過ごしたと思う時間が激減したから。
これまでは、「時間がゴムのように伸びる」っていうのはビーチでぼーっとしているとかいつでも旅行に行けるとか、物理的な時間的余裕を持っている事という意味合いだと思ってきたけど、その物理的な時間的余裕というよりも感覚的に時間を無駄にしないで過ごすという意味が本来のジャム・カレットだと意味を自分で定義し直した。
前は、TikTokやYoutubeを永遠に見続けていて、「あ~またこんなに見ちゃった」って思う事が多々ありました。でも思い切って取捨選択して、TikTokはアンインストール。
TikTokに費やしていた時間が生まれて、その時間は読書やヨガの時間に充てるように。
(ぼーっとスクロールしているよりも、頭を動かして物事を考えたり体を動かした方が脳みそは喜んでいるみたいです笑)
TikTok中毒だった自分は「疲れたからいいや」って自分に納得させて、ぼーっとTikTok見ていたけど、でも本当は他のことに時間を使いたかったはずだから、TikTok見たことに満足感よりも不満感を抱いてしまっていた。無意識に言い訳を考えて、自分から逃げてしまっていたのだな、
つまり、TikTok視聴時間という物理的な時間的余裕があっても、心は腑に落ちてない。
それは本来のジャム・カレットとは言い難い気がする。なぜなら、南国インドネシアの人たちからはどことなく心に余裕を感じた。腑に落ちた時間の使い方をしているからか、不満気に生きている人はあまり見かけなかった。
となると、自分も今は本来のジャム・カレットに近い状態で生きている。自分がやるべき事につべこべ文句や言い訳を考えずに実行することを意識してみて、お決まりのルーティン(ルーティンも時間帯や順番とかいろいろ組み合わせを変えると面白い)をこなす。そのルーティンをしている時はいつも「自分にはこれが必要だ」と思いながら実行。毎日こなして自分をメンテしている感じ。
その必要性を感じるようになったのはついこの前で、結果にはそこまでこだわらず、ただひたすらに実行を繰り返すことで、すこーしずつ現実的にゴールに近付いてる感覚をもって、今日もルーティンをこなしています。
システムエンジニアになったワケーヒト
人間が求め続ける先に何があるのか?
この問いがシステムエンジニアというキャリアに決めたワケに詰まっています。
始めに、この世界で人間がどんな主義に基づいて動いているか考えたことがありますか?
現代、この世界は「自由主義」という物語の中に私たち人間が生きているみたいです。(ロシヤや中国は除こう。)
もちろん「自由主義に基づいた時代に生まれてきたのか」と小さい頃から悟っていたわけではなくて、生きていたらそんな物語の中にいることに気づいた、そんな感じ。
この記事を書くにあたって、そして読んでくれる皆さんにむけて以下の三つの材料を載せてみます。(ユヴァル・ノア・ハラリ著の21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考から参照しています。)
材料1 | 物語
20世紀には、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、モスクワのグローバルなエリート層が、過去をそっくり説明するとともに全世界の将来を予測するという触れ込みの、三つの壮大な物語を考え出した。ファシズムの物語と、共産主義の物語と、自由主義の物語だ。
材料2|「自由主義」の物語
自由主義の物語は、自由と圧政との闘争として歴史を説明し、あらゆる人が自由に平和的に協力し、たとえ平等はある程度犠牲にしても中央の統制を最小限にとどめる世界を思い描いた。
材料3|自由主義のセットメニュー
経済の分野
国家的なレベル→自由市場、民営化、低課税
国際的なレベル→自由貿易、グローバルな統合、低関税
(政治の分野と個人の分野は割愛)
自由主義以前は、国家による統制があったので国民一人ひとりがクリエイティブにアクティブに行動していくということはしづらい世の中だったみたいです。
でも今は、なんでもやろうと思えばできる時代というわけ。ソーシャルメディアはまさにその気軽さを一般大衆にもたらした感じ。
そのチャレンジの原動力の多くに、個人の経済的豊かさを目指し、自己成長の成果(証)として会社の繁栄、国家の経済成長とする仕組み(常識)ができてしまっていると感じます。自分が働けば経済的に豊かになり、会社にも国にも喜ばれるしwin-win関係なのかな。
また世間一般的に評価・気にされるポイントなので、他者からの評価によって目標達成時の達成感、快感も得られるのでしょう。
ただ、こういった当たり前の考えをもった人間が溢れた時代に生まれてきたから、実際誰のせいとかではなく、長い人間社会の歴史の積み重ねによってそうなってしまったのだと思います。
ではそろそろ本題です。先に述べた、なんでもやれる時代に生きている人間たちの原動力に見え隠れしているアレに気づいている人はどのくらいいるのでしょうか。
アレとは
要は人間の欲望ばかりってことです。自分たちの豊かになりたい、成長したいという”人間の欲望”に囚われ、自分たちが今どこに生存している生命体であるのかという考えが欠落していませんか。
「わたしたちはどこに住んでいますか?」
当たり前のことですが答えは「地球」。
自分の経済的な豊かさ、経済成長をもとめれば求めるほど、私たちのベース基地が壊れていっていることに気づかないのでしょうか?
本末転倒ってまさにこのことな気がします。
人間の欲によって地球環境を蔑ろにしてしまったビジネスの確立がこうなってしまったのかなとも思います。
この”人間の欲望”のベクトルを変えられないかというのが私のSEとしてのキャリアに通じています。
確かに自分もこの自由な時代に生まれ育った人間なので、経済的な豊かさが欲しいなと思った事があります。でもそれって本当に必要な人間の欲望なのか?って考えた時に、Noって答えしか出なかった。
補足:確かに子どもを育てるためや、奨学金を支払うため等で必要な方もいると思いますが、必要以上の経済的なお金を求めることにスポットを絞って書いています。
経済的な豊かさを持って何がしたいのか?って考えると高級なモノの消費しか思いつかなくて、それ消費して自分はハッピーになるのか考えてみたんです。
私の回答は、「いや~一時的なハッピーかな、さらに求めちゃってキリがないw」。
そしてベース基地を壊し続けてしまうのはなんかメリットを感じない...
人間の欲望のベクトルを変える実験台が自分
でも、たぶん別に経済的な豊かさではなくても人間の欲って消えることないと思うんです。
食欲が一時的に満たされて、また活動すると渇望しちゃうのを想像してもらえれば、"お腹が空いた→ご飯食べる→お腹がいっぱいになる"を死ぬまで何千回も繰り返すわけなんです。
じゃあ、そんな消えない人間の欲望の"ベクトル"を経済的な豊かさや経済成長から変えていこうじゃん!
先にも述べたように経済的な豊かさでゲットするのってモノの消費。
モノの消費って基本循環してないから買ったらゴミになる(もちろんエシカルな商品や仕組みも増えてきてます!)、もう自分らのベース基地(地球)を壊しちゃうじゃんか。
そんな風にいろいろ考えて、私が思いついた人間の欲望のベクトルシフト計画で、以下のアイディアが採用されました笑
モノに囚われない AND 地球壊さない AND 人間の欲望満たす= 知の追求
システムエンジニアという職業はその人が持っている知識前提でロジカルシンキングが求められる技術職になります。
この職業なら、もっと買いたいという欲望をもっと知りたいという欲望にシフトするのに合っていそうと思ったんです。
実際今SEなって半年強で、経済的な豊かさを求める事はめっきり無くなりました。(老後の蓄えは心配です。笑)
また自分の身の回りを引っ越しで整理して、シェアハウス時代は7畳に自分の所有物が収まり、必要最低限で特に不便な事もなく、必要以上の物欲は無くなりました。
そして、SEの知識だけじゃなくてインドネシア語や英語ももっと磨きたいと思うようになって、自分なりにアクティブに知の追求をして生きています。
こんな感じで物欲や無い物ねだりをしなくなったから、なにより心がシンプルになったし、感情も一定に保つこともできていてストレスフリー。
知を求めることにおいて、分からないことがあるのは前提だからべつに今スグに分からなくていいというスタンスで臨んでいるからかな。(あと日々の瞑想とヨガのおかげでもある。)
私は毎日ヨガして知の追求、そして周りに大好きな家族と友人がいればそれで満足みたいです。